第14期 砂で世界旅行・エジプト編

ギザのピラミッドやスフィンクス、ツタンカーメンなど、古代エジプト王朝のファラオたちや当時の様子、エジプトの歴史や文化にちなんだ砂像21作品を展示。また、PR砂像として「ツタンカーメン」の屋外砂像も制作された。

ルクソール神殿

ルクソール神殿

神々に対する儀式の場として古代エジプトの王たちが建設した神殿。有名なのがルクソール神殿やイシス神殿です。ルクソール神殿は紀元前14世紀末ごろアメンホテプ3世に建設され、その後ラムセス2世の大改築をはじめ多くの王の手が加えられました。入口である塔門の両脇には巨大なラムセス2世像が鎮座し、至聖所に続く列柱廊にはオシリス神やパピルス柱が並んでいます。イシス神殿はプトレマイオス朝時代の紀元前4世紀ごろに建設され、家庭生活や豊穣を司る女神イシスに捧げられました。のちにイシス信仰はローマ帝国でも高まり、皇帝たちも建物を増築しました。作品ではルクソール神殿とイシス神殿のモチーフを組み合わせ、儀式の場の神聖さを表現しています。 砂像彫刻者:Andrius Petkus(アンドリウス・ペトクス)/リトアニア

カイロのバザールの風景

カイロのバザールの風景

たくさんの人々が行きかう賑やかなバザール。アラビア語ではスークと呼ばれます。10世紀後半から地中海とインド洋を結ぶ海上交易が盛んになり、多くの商人が立ち寄るカイロは交易の中心となりました。やがてカイロにもハンハリーリ市場をはじめ様々な市場が生まれます。元々は13世紀に国が建設したイスラム商人向けの宿でしたが、周りに人々や店が集まり市場として発展しました。当時の商人たちはエジプトを支配する王族とも取引を行っていて非常に裕福だったそうです。モスクに繋がる通りは、店先で果物や絨毯の品定めをする人や女性の華麗なダンスを見物する人で活気に溢れています。 砂像彫刻者:Wiaczeslaw Borecki(ヴィアチェスラヴ・ボレツキ)/ポーランド

ナイル川

ナイル川

世界最長の川であり古代から人々の生活の中心だったナイル川。年に一度起こる大氾は砂漠地帯に農作物が育つ肥沃な地を育み、川から採れる土泥は日干し煉瓦や焼き物づくりにも使われました。また、エジプトを南北に貫くナイル川は重要な交通路でもあり、王の舟がゆったりと進み、穀物から建築用の石材まで様々な物が舟で運ばれました。ナイル河畔には神殿などの記念建造物や都市が築かれ、やがてエジプト文明は繁栄を極めます。かつて古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と川を讃えました。ナイル川は現在でも大切な水源であり人々の生活になくてはならない存在です。 砂像彫刻者:Oscar Rodriguez(オスカー・ロドリゲス)/スペイン

古代エジプトの生活

古代エジプトの生活

太陽の下で農耕中心の生活を送っていた古代エジプト人。彼らの多くは農民で小麦や大麦、タマネギやレタスなどの野菜を育てていました。パンを主食とし、小麦を各家庭で粉にしてかまどや陶器の型でパンを焼いていたそうです。新王国時代には専門のパン職人も現れ、遺跡から製パン所の跡が見つかっています。魚もよく食べていましたが、肉類はぜいたく品でした。庶民が食べることはめったになく、牛は荷運びや乳搾りのために飼われていました。人々は1年を通して様々な作物を栽培していましたが、ナイル川が増水する時期は例外でした。ピラミッド建設や治水工事に従事し水が引いたらまた農業を行う。そのサイクルは星の位置で予測され、のちの太陽暦の元となりました。 砂像彫刻者:Michela Ciappini(ミケーラ・チャピーニ)/イタリア

古代エジプトの宗教 死者の書

古代エジプトの宗教 死者の書

死後の世界が信じられていた古代エジプトでは、新王国時代(紀元前16世紀以降)死後の平安を願って「死者の書」を墓に納めました。パピルスの繊維から作られたこの巻物には古代文字ヒエログリフで死者が楽園にたどり着くまでに乗り越える試練と対処するための呪文などが記されています。約190ある章の中で最も有名な「死者の裁判」では、アヌビス神が「真実の羽根」と死者の心臓をそれぞれ秤に乗せ生前の罪を調べます。秤が傾けば幻獣に心臓を奪われ転生への道は絶たれます。羽根とつり合いが取れ清廉潔白が証明された死者はホルス神に案内され冥界の王であるオシリス神の元へ進むことができました。オシリスが治める楽園で永遠の命を得た死者は何の苦しみもなく暮らしていくと考えられていたのです。 砂像彫刻者:Guy Olivier Deveau(ギ―・オリヴィエ・ドゥヴォ)/カナダ

アクエンアテン王とその家族

アクエンアテン王とその家族

古代エジプト第18王朝の王、アメンホテプ4世。紀元前14世紀半ば首都テーベで神官の権力が増していることに懸念を抱いた王は太陽神アテンを唯一神とする宗教改革を試みました。さらに王はアクエンアテンに改名し、テーベを離れアマルナに新たな首都を作ります。しかし彼の改革は一部の人にしか受け入れられず、死後に異端とされた王の名は記念碑から削除され造営した建物も破壊されたのです。アクエンアテンの改革は新しい美術様式も生み出しました。アマルナ美術は写実的な表現を特徴とし、アテン神は太陽と太陽光線で表され、それまで威厳や理想の姿を示していた王の肖像は家族団らんなど気取らない姿に変化しました。アクエンアテンと正妃ネフェルティティの間には6人の娘がおり、側室を含めると8人の子がいたとされています。ツタンカーメンもその一人です。 砂像彫刻者:Dmitrii Klimenko(ドミトリー・クリメンコ)/ロシア

カデシュの戦い

カデシュの戦い

紀元前1274年頃エジプトとヒッタイト帝国が領地をめぐって争ったカデシュの戦い。エジプト軍を率いる王ラムセス2世は敵国のスパイの嘘情報に騙されカデシュ(現在のシリア)でヒッタイト軍の襲撃を受けました。ラムセスはこの時代では珍しく180㎝を超える長身で、彼にしか扱えない強力な弓で次々と敵兵を倒しましたがヒッタイトも手強く、戦闘が膠着状態になりました。ヒッタイトの王ムワタリ2世は戦車の上で勇敢に戦うラムセスを見て停戦を申し入れ、エジプトが承諾し戦いは引き分けに終わったとされています。のちに世界初の平和条約が結ばれ両国は良好な関係を続けたそうです。実際にはこの戦いはエジプト側の被害が大きかったと考えられていますが、ラムセスの建造物には王の功績として戦いのレリーフが刻まれています。 砂像彫刻者:Ilya Filimontsev(イリヤ・フィリモンツェフ)/ロシア

ギザのピラミッドと大スフィンクス

ギザのピラミッドと大スフィンクス

約5000年前エジプト古王国時代に建造され、用途や建造の方法など多くの謎が残るギザのピラミッド。最も古く大きいクフ王のピラミッドは巨大な石を200万個以上積み上げて作られ、高さが約138mあります。基底部の1辺の長さは約230mですが4辺の誤差がわずか20cm、ほぼ水平を保っているなど非常に精密です。四角錐の頂上部に化粧石が残るピラミッドの主はクフの子であるカフラー王です。大きさはクフに劣るものの高い位置に建造したため一番大きく見えます。カフラーの子であるメンカウラー王はクフの半分ほどの高さで建造しました。他にも王妃のピラミッドなどがあり、この場所から永くエジプトを見守ってきました。ピラミッドの前に鎮座するスフィンクスはエジプト神話に登場する神聖な存在で、守り神としてカフラーの時代に建造されたと考えられています。全長約73m、高さ20mで1枚岩から掘り出した像としては世界最大です。ギザのピラミッドとスフィンクスは1979年に世界遺産に登録され、古の人々が築き上げた壮大な景観が多くの人を惹きつけています。 砂像彫刻者:Leonardo Ugolini(レオナルド・ウゴリニ)/イタリア

アブ・シンベル大神殿

アブ・シンベル大神殿

エジプト最南端の地にありラムセス2世の建造物の中で最も有名なアブ・シンベル大神殿。紀元前1250年ごろナイル西岸の岩山を削って作られた高さ33m、幅38m、奥行63mの大神殿は正面にラムセスの巨大な4体の坐像がそびえます。像の足元には家族の小さな像が作られ、入口の上部には太陽神ラー・ホルアクティの像が祀られています。ラムセスの坐像の一つは上半身が崩壊していますが、これは完成から数年後に起きた地震によるものだそうです。しかし神殿の堂々たる佇まいはラムセスの権力を広く知らしめるには十分でした。時は過ぎ、1960年代にこの神殿が注目を集める出来事がありました。ナイル川上流にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がり、河畔の大神殿と小神殿が水没の危機に陥ったのです。ユネスコにより遺跡の保護が呼びかけられ、世界中から集まった支援によって両神殿は安全な場所に移築されました。この出来事をきっかけに世界遺産制度が創設され、大神殿と小神殿も1979年に登録されています。 砂像彫刻者:David Ducharme(デビッド・ドゥシャーム)/カナダ、Susanne Ruseler(スザンヌ・ルセラ)/オランダ

アブ・シンベル小神殿

アブ・シンベル小神殿

アブ・シンベル大神殿から少し離れた場所にあるアブ・シンベル小神殿はラムセス2世が愛妃ネフェルタリのために建造しました。高さ12m、幅28mの神殿の正面には2体のネフェルタリ像とそれを守るかのように両隣に立つラムセス2世像があります。王妃のためにこれほど立派な神殿を建造することは珍しく、ラムセスが深い愛情をもっていたことが伺えます。この作品では中央の大神殿をはさんで小神殿を彫刻しています。  砂像彫刻者:Niall Magee(ナイル・マギー)/アイルランド

ツタンカーメン王の発掘

ツタンカーメン王の墓の発掘

少年王として広く知られるツタンカーメン。国を治めたのは紀元前1333年から約10年間とされますがその生涯や人物像は謎に包まれていました。1922年イギリス人の考古学者ハワード・カーターにより墓が発見され、ミイラと副葬品がほぼ完全な形で見つかったことで「世紀の大発見」として世界を驚かせました。王の墓は多くが盗掘されてきましたが、墓の入口が砂や瓦礫で隠れていたこと、先王アクエンアテンと共に異端として歴史から抹消されていたことでツタンカーメンの墓は盗掘を免れたといわれます。ミイラが眠る玄室の入口は門番姿をしたツタンカーメンのカー(魂)の像に守られています。副葬品は5000点以上にものぼり、豪華な宝飾品だけでなく家具や衣服などの日用品も収められていました。玄室の壁にはツタンカーメンが神によって冥界に迎え入れられる様子や聖なるヒヒが描かれています。作品ではカーターが3重の棺を開け、黄金のマスクを被ったミイラにたどり着こうとしています。  砂像彫刻者:Thomas Koet(トーマス・クォート)/アメリカ

アレクサンドリアの風景

アレクサンドリアの風景

マケドニアのアレクサンドロス大王によって紀元前332年に築かれた地中海沿岸の街アレクサンドリア。プトレマイオス朝時代には古代エジプトで初のナイル川から離れた首都になりました。学術都市としての面も持ち合わせ、王が設立した学問研究所ムセイオンには世界各国から優れた学者が招かれました。彼らの活動を支えたアレクサンドリア図書館は国内外からあらゆる分野の書物が集められ当時としては世界最大の図書館だったといわれています。しかしムセイオンと図書館は時代の変遷の中で争いに巻き込まれ姿を消しました。また、この街は貿易港としても栄え、港には高さ146mの大灯台が建てられました。多数の船舶の航行を見守った大灯台は14世紀までに3度の地震を受けて消滅しました。その高さをどのようにして建設したのかは分かっておらず、世界七不思議のひとつになっています。 砂像彫刻者:Sue McGrew(スー・マクグリュー)/アメリカ

聖なる動物

聖なる動物

エジプトに生きる多種多様な動物たち。動物は古代エジプト人にとって自然の象徴で、人知を超えた力を持つ神聖な存在でした。動物たちが司ったものはさまざまです。空を舞うハヤブサは天空の神ホルスの使いとされ、トキは知恵の神トトになりました。死者を守るかのように墓に住みついたジャッカルは死者の神アヌビスになり、カラカルなどネコ科はネズミやヘビを狩る家庭の守り神とされ壁画にも描かれています。また、ナイル川の周辺に住む動物たちも身近な存在でした。ガゼルはナイル川の女神アヌケトの使いとされ、立ち上がった姿のカバは家庭と出産を司る女神タウエレトとして描かれました。ワニは肥沃・豊穣の神セベクとされ、ワニに襲われないよう人々は彼に祈ったそうです。古代エジプト人は動物に憧れとともに畏敬の念も抱いていました。 砂像彫刻者:Marielle Heessels(マリエレ・ヒーセルス)/オランダ

古代エジプトの宗教 死者の書

古代エジプトの宗教 死者の書

死後の世界が信じられていた古代エジプトでは、新王国時代(紀元前16世紀以降)死後の平安を願って「死者の書」を墓に納めました。パピルスの繊維から作られたこの巻物には古代文字ヒエログリフで死者が楽園にたどり着くまでに乗り越える試練と対処するための呪文などが記されています。約190ある章の中で最も有名な「死者の裁判」では、アヌビス神が「真実の羽根」と死者の心臓をそれぞれ秤に乗せ生前の罪を調べます。秤が傾けば幻獣に心臓を奪われ転生への道は絶たれます。羽根とつり合いが取れ清廉潔白が証明された死者はホルス神に案内され冥界の王であるオシリス神の元へ進むことができました。オシリスが治める楽園で永遠の命を得た死者は何の苦しみもなく暮らしていくと考えられていたのです。 砂像彫刻者:Montserrat Cuesta(モンセラート・クエスタ)/スペイン

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ハトシェプスト女王葬祭殿

3段構造のテラスが特徴的なハトシェプスト女王葬祭殿。古代エジプトの王たちは自らの葬儀や死後に祈りが捧げられる場として葬祭殿を建てました。紀元前15世紀ごろに国を治めたハトシェプストは、古代エジプトでは珍しい女性の統治者でした。夫の死後、幼いトトメス3世に代わって実権を握り数年後にはファラオを名乗りだしたといわれています。彼女は内政に優れた手腕を発揮し、周辺国と平和な関係を築いて交易を活発に行いました。ハトシェプストの葬祭殿は古代エジプトの神殿建築における最高傑作のひとつと名高く、1979年には世界遺産に登録されました。切り立った崖を背に建つ葬祭殿は左右対称で、最上階の柱にはオシリスに扮したハトシェプストの像が並んでいます。 砂像彫刻者:Jill Harris(ジル・ハリス)/アメリカ

古代エジプトの神々

古代エジプトの神々

古代エジプトでは太陽や川といった自然や、人間を超越した能力をもつ動物など様々なものに神が宿ると考えられていました。地域や時代によっても信仰の対象が違い、神の数は1000以上ともいわれます。太陽神ラーは神々や人間を含む万物の創造者である原初の神で、日輪を載せたハヤブサ頭の人物として表されます。また、冥界の神オシリスは死後に復活し永遠の命を得たことから古代エジプトの死生観に大きな影響を与えました。「ホルスとセトの戦い」で知られる砂漠の神セトはツチブタの頭をした姿で描かれます。セトはオシリスを殺し、オシリスの子であるハヤブサの頭をした天空の神ホルスに敗れました。女神も多く、ホルスの母であるハトホル神は頭に牛の角をもち日輪を載せた姿で表され愛と美の女神、死者の神、天の牝牛など様々な性格をもち広く信仰されました。  砂像彫刻者:Jill Harris(ジル・ハリス)/アメリカ

クレオパトラ

クレオパトラ

古代エジプト最後の王として君臨したクレオパトラ。美女として知られていますが、7か国語を話せる聡明さも持ち合わせていたそうです。彼女は共同で統治する弟プトレマイオス13世と対立し、強力な後ろ盾を得るためローマの政治家カエサルに近づきました。丸めた絨毯に隠れて会談に現れたエピソードは非常に有名で、その後愛人となったクレオパトラは権力を掌握します。しかしエジプトを手中に収めたいローマ側は2人の関係に難色を示し、紀元前44年にカエサルを暗殺します。クレオパトラは自ら国を守るべくローマの軍人アントニウスと関係を深め、ローマの血を引く子たちの王朝を立てようとしました。ところがローマ側の夫妻への不信や戦争での大敗、ナイル川の水不足も重なって彼女は追い込まれます。最終的にアントニウスは自ら死を選び、クレオパトラも後を追いました。生前の彼女は囚人で様々な毒を試して苦痛なく命を絶つ方法を探していたそうです。その波乱の人生は多くの戯曲や映画の題材にされています。 砂像彫刻者:Nikolai Torkhov(ニコライ・トルコフ)/ロシア

イスラムの時代

イスラムの時代

現在のエジプトで広く信仰されているイスラム教は7世紀に侵入したアラブ人によって伝えられました。彼らは現在カイロの一部となっているフスタートに基地をつくり、様々な場所に礼拝のためのモスクを建設します。カイロに首都を建設したのは969年のことでした。イスラム教のもとエジプトでは様々な王朝が成立しますが、その中でも伝説視されているのがアイユーブ朝の創始者サラディン(サラーフ・アッディーン)です。11世紀からイスラム教とキリスト教徒十字軍が聖地エルサレムを巡って争う中、サラディンは城塞を築いてエジプトを地中海方面の攻撃から守りました。エルサレムの奪還を遂げてもキリスト教徒の命を奪わなかった寛大さから、勇敢ながら慈悲深い英雄として語り継がれています。 砂像彫刻者:Joris Kivits(ヨーリス・キヴィッツ)/オランダ

ナポレオンの遠征とロゼッタストーンの発見

ナポレオンの遠征とロゼッタストーンの発見

古代文字ヒエログリフ解読の鍵となったロゼッタストーン。1799年ナポレオン率いるフランス軍がエジプト遠征中にロゼッタという地で発見しました。イギリスの交易路を断つための軍事遠征は古代エジプトの調査も兼ねており、160人以上の科学者や歴史学者が同行していました。その発見物のひとつだったロゼッタストーンにはヒエログリフとその簡略文字であるデモティック、ギリシャ文字の3種類が刻まれており、学者たちはすべて同じ内容だと推測して解読を目指します。1822年解読に成功したのはフランスの言語学者シャンポリオンでした。ヒエログリフが意味だけでなく発音も表すという説とギリシャ文字の知識から内容を突き止め、エジプト学に光明をもたらしました。その後パピルスや神殿の文字も解読が進み、数千年にわたって築かれた文明の歴史が世界中に知られるようになったのです。 砂像彫刻者:Agnese Rudzite(アグネス・ラトジーテ)/ラトビア

バステト

バステト

猫の姿で描かれ豊穣の女神・多産の象徴として信仰された神バステト。一説によると猫を初めて家畜化したのは古代エジプト人といわれています。ネズミを捕るなどの目的で飼われていた猫はいつしか人間の生活に溶け込み、可愛がられる存在になりました。しだいに神聖化され、獰猛なライオン頭の女神だったバステトは穏やかな猫の姿に変化しました。楽器シストラムを持ち2本足で立つ姿で表現されることもあります。宗教観が変わった現在も猫は人間に身近な存在であり、愛らしい姿のバステトは世界中で親しまれています。 砂像彫刻者:茶圓勝彦(チャエン・カツヒコ)/日本

ミイラと来世信仰

ミイラと来世信仰

腐敗せず生前の姿に近い状態を保った死体を指す「ミイラ」。古代エジプトでは死者の魂は肉体から離れ最後の審判を経て再び肉体に戻り復活すると考えられており、肉体を保存するため専門の職人がミイラを作りました。職人は死体から臓器を取り出し防腐処理を施して包帯を巻きます。臓器はヒヒやジャッカルの形をしたカノプス壺に保存されました。元々死後の復活は王族など一部の人に限られた死生観でしたが次第に庶民にも広まり、人だけでなく動物のミイラも作られました。ミイラは映画などで人を襲う怪物のように表現されますが、古代エジプトでは最も望まれた埋葬方法であり、復活を遂げた死者は生前と同じように豊かな生活を送ると信じられていました。  砂像彫刻者:Jakub Zimacek(ヤクブ・ジマチェク)/チェコ

ツタンカーメン

ツタンカーメン

2022年はツタンカーメンの墓が発掘されて100年の節目にあたります。 その「ツタンカーメン」を作品のセンターに配置し、周囲を左上から時計回りで「ネフェルティティ」「メンカウラー王」「クレオパトラ」「ラムセス2世」「アレクサンドロス大王」が囲みます。 本作品は、2022年4月にエジプト編PR作品として制作しました。 砂像彫刻者:茶圓勝彦(チャエン・カツヒコ)/日本